亡びるのは、先だ―朴市秦造田来津

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①時代と舞台

飛鳥時代、大化(たいか)元年(645年)から天智天皇(てんじてんのう)2年(663年)まで。近江(おうみ)の渡来系氏族(しぞく)の武人・朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)と、白村江(はくすきのえ)の戦いの物語です。

②歴史の手がかり

  • 朴市秦造田来津 近江国愛知郡(いまの滋賀県東近江市・愛荘町のあたり)を本拠とした秦氏の一族です。645年、古人大兄皇子の謀反事件に名を連ねましたが、罪には問われなかったようです。
  • 百済の滅亡と復興運動 660年、百済は唐と新羅に滅ぼされました。遺臣の鬼室福信らは、倭にいた王子・豊璋を迎えて国の再興を図り、倭も大軍を送りました。
  • 州柔と避城 662年、百済復興軍は山城の州柔から、田畑の豊かな避城へ拠点を移そうとしました。田来津は「敵に近すぎる」と反対しましたが聞き入れられず、のちに結局州柔へ戻ります。『日本書紀』は「田来津の計の如し(田来津の言った通りになった)」と記しています。
  • 白村江の戦い(663年) 倭・百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗した海戦です。『日本書紀』は田来津の最期を「天を仰ぎて誓ひ、歯を切りて嗔る」と記しています。

③あらすじ

「父上の国は、どこですか」。
近江の川辺で幼い息子に問われ、田来津は答えられなかった。
やがて百済は滅び、田来津は再興を助けるため海を渡る。
出立の日、成長した息子は言った。
「勝ってください、とは申しません」。
異国の評議の場で、田来津はただ一人、王の決定に異を唱える。
「飢えることは、後です。亡びるのが、先です」。
正しいことを言いながら、誰にも聞き入れられない男。
白村江の海で、彼が最後に守ろうとしたものとは。


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