帰れぬ坂本

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①時代と舞台

安土桃山時代(あづちももやまじだい)、天正(てんしょう)10年(1582年)。本能寺の変(ほんのうじのへん)を起こした明智光秀の、最後の半年の物語です。

②歴史の手がかり

  • 明智光秀 織田信長の重臣で、近江の坂本城と丹波を領しました。妻は熙子、娘の玉(のちの細川ガラシャ)は細川忠興に嫁いでいました。
  • 四国をめぐる方針転換 光秀は長く、土佐の長宗我部元親と信長との間の取り次ぎ役を務めていました。しかし信長は方針を変え、三男・信孝による四国攻めを準備します。これを変の動機の一つとみる説があります。
  • 近衛前久 公家の最上位にあたる前関白で、信長と親しい人物でした。変への関与を疑う説がありますが、確かな証拠はありません。
  • 愛宕百韻 変の数日前、光秀が京都・愛宕山で催した連歌の会です。光秀の発句「ときは今 あめが下しる 五月かな」は、のちに謀反の決意を詠んだものと解釈されるようになりました。
  • 本能寺から山崎へ 6月2日未明、光秀は本能寺の信長を討ちました。しかし味方を頼んだ細川藤孝・筒井順慶は動かず、中国地方から急ぎ戻った羽柴秀吉に、13日、山崎で敗れました。
  • 今も謎の動機 光秀がなぜ信長を討ったのかを示す確かな記録はなく、怨恨説・野望説・四国説・黒幕説などが今も並び立っています。

③あらすじ

天正10年6月1日の夜、老ノ坂。
西へ行けば、昨日までの人生が続く。
東へ行けば、天下が燃える。
明智光秀は馬を止める。
半年前、信長の一言で長宗我部との約束は反故になった。
近衛前久は何かを言いかけて口を閉じた。
家康の饗応の席で信長がかけた「ようやっておる」の一言。
愛宕山で三度引いた籤。
記録に残らなかったものの積み重なりの中で、光秀は東を向く。


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