天河に遊び、来迎院に心を置く― 烏天狗と役小角、そして魂の清め ―
天河大辨財天社と来迎院には、もう何度お詣りしたことだろう。
天川村へ向かう山道を車で走る時間が、私は好きである。
前夜の雨を含んだ山々は緑を深め、谷を流れる川には白い波が立っている。
カーブを曲がるたびに山肌が迫り、濡れた岩肌には細い水の筋が光っていた。
橋の継ぎ目を越えると車体が小さく揺れ、その一瞬、谷川の音が近づいたように感じる。
窓を少し開けると、杉の香りと湿った土の匂いが流れ込んできた。
何度も通った道なのに、飽きることがない。
こんな山道を走っていると、私は勝手な想像を楽しむ。
道沿いの杉の枝に、烏天狗が腰掛けている。
こちらを見つけると、少し呆れた顔をする。
「おい、また来たのか」
「はい。またお邪魔します」
「よほど好きなのだな」
「ええ、あなたにも会えますから」
烏天狗は得意そうに翼を広げる。
もちろん、私の空想である。
しかし、修験者たちが歩いたこの山々には、そんな想像を楽しませてくれる何かがある。
天河大辨財天社に到着すると、静かに拝殿へ進む。
何度お詣りしても、神前に立つと自然に背筋が伸びる。
境内には、修験道の開祖、役小角を祀る役行者堂がある。
千三百年の昔、この大峯の山々を拓いたと伝えられる人である。
堂の前に立ち、私は心の中で尋ねてみる。
「役行者様、なぜこれほど険しい山で修行されたのですか」
すると、想像の中の役小角は、逆に問い返してくる。
「お前こそ、なぜ何度もここへ来る」
「ただ、好きだからです」
「ならば、それでよかろう」
何とも都合のよい会話である。
お詣りを終えると、来迎院へ向かう。
境内に立つ大きな銀杏の木を見上げる。
太い幹には深い皺が刻まれ、長い年月を生き抜いてきた風格がある。
足元の石は、まだ雨の湿り気を残していた。
ふと、銀杏の枝から一滴の雫が落ちた。
石に当たって小さく弾ける。
次の雫が落ちるまで、私はしばらくその場に立っていた。
天河では賑やかだった胸のうちが、雫の音ひとつで静まっていた。
千手観音の祀られるお堂に向かい、手を合わせる。
観音は観世音ともいう。
世の人々の苦しみの声を聞き取り、救いの手を差し伸べる仏である。
そのことを思うと、ふと自分の日常が気になった。
人の話を聞いているつもりで、実は自分の考えを先に用意してはいないだろうか。
相手が言葉を探している間に、こちらは答えを決めてしまってはいないだろうか。
天河で役小角と交わした、あの空想の会話が思い浮かぶ。
「ただ、好きだからです」
「ならば、それでよかろう」
役小角は、それ以上何も尋ねなかった。
自分で思い描いた役行者なのに、その沈黙が妙に心に残っていた。
銀杏の葉が、小さな音を立てた。
私は目を閉じた。
日々の暮らしでは、人の言葉を聞くより、自分の言葉を伝えることに心を使いすぎているのかもしれない。
何か答えを見つけようとする気持ちも、いつの間にか薄れていた。
風が枝を揺らし、葉擦れの音だけが続いている。
先ほど落ちた雫の音を思い出した。
水を浴びたわけでも、特別なことをしたわけでもない。
それでも、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ洗い流されていくようだった。
境内を出るとき、何かをあの銀杏の下に置いてきたような気がした。
帰りの車に乗り込むと、また烏天狗が声を掛けてきそうになる。
「おい、もう帰るのか」
「はい。また参ります」
「今度は土産を忘れるなよ」
思わず笑みがこぼれる。
山道を下り始めると、木々の間から川が見えた。
来るときと同じ流れなのに、水音が少し違って聞こえる。
私はもう一度、窓を開けた。
あの烏天狗が何か言っているような気がした。
今度は、すぐに返事をせず、耳を澄ませてみた。

